栃木県真岡市はいちごの生産量がなんと日本1位のいちごの町です。栃木県が毎年主催している「いちご王国グランプリ」において最高賞の大賞を多数受賞しているそうです。
また蒸気機関車「SLもおか」が走るSLのまちでもあります。真岡駅はSLの形をした駅舎となっており、駅を出ると過去に全国を走っていた蒸気機関車が展示された施設もあります。
いちごやSLがあって真岡市は魅力がいっぱいだね!
今回はそんな真岡市に古くからある栃木県立真岡高等学校についてご紹介します!栃木県では普通のことですが全国では数少ない公立の男子校です。その創立は1900年(明治33年)なんです!
1900年!!
もう120年以上前だね!
真岡高校は栃木県で3番目に創立された旧制中学校を前身としているよ。
真岡高校のことが気になったらぜひ見てみてね。
真岡高校の基本情報
栃木県真岡市白布ケ丘24-1
真岡高校は真岡駅から徒歩約5分の場所にあるため、電車通学をしている生徒にとっては便利な立地になっていますね。しかし真岡駅を通っている真岡線は栃木県の東南部と茨城県筑西市を走る路線のため、JRは筑西市の下館駅だけしか繋がっていないなど注意が必要です。
なおバス停が近くにあるためバスで通うことはできます。
いろいろと真岡高校まで通う方法はあるようだね。
真岡高校はどんな高校なの?
真岡高校は白布ケ丘という小高い丘の上にあり、SLが走る日(主に土日)には汽笛が聞こえるようだよ。
入学者のほとんどが大学進学を希望しているそうで、毎年難関大学に多くの合格者を輩出する進学校なんです。
偏差値や進学実績は?
真岡高校は偏差値はおよそ58とされています。毎年国公立大学の現役合格者数は80名ほどです。そしてそのうち70名ほどは国立大学の合格となっています。一番合格者数が多いのは地元の宇都宮大学ですが、東京大学や東北大学、筑波大学などの合格者もいます。
真岡高校は偏差値以上の実力がある生徒もいそうな高校だね!
真岡高校で上位になれば難関大学への合格の可能性もありそう!
私立大学については早稲田大学や慶應義塾大学が毎年それぞれ5名程度、MARCHについてはそれぞれ5~10名程度の合格者がいるとのことでした。私立の難関大学についてはそれほど合格者は多くないようですね。
ちなみにここで紹介されている合格者数はおそらく延べ人数のため、同じ生徒が何校も合格した場合も数にカウントされているのでご注意ください。
地方のため自宅から通える高校が少なく、高校偏差値以上の実力を持つ生徒も入学してくるという話もあるそうです。同じ高校の中でも学力にかなり差がありそうな感じがします。
進路実績(真岡高校HPより)
学校の特色
真岡高校の基本精神は「至誠」の精神だそうですよ。
至誠?
至誠とは「人を欺かず、また己を欺かず、自己の良心を尊び、善と信ずることは必ず実行する」という意味だそうです。誠実な生き方をするということでしょうか。この基本精神を基にして、地域の期待を担う名門男子校として、「質実剛健」「文武両道」をモットーに、生徒達は日々勉学とスポーツに汗を流し、自己錬磨に励んでいるとのことです。
真岡高校は真岡市の伝統校だから、地域の人たちからの期待も大きいのかもしれないね!
部活動加入率は約85%と紹介されていたので、多くの生徒が部活も頑張っているようですよ。
真岡高校には昔から「至誠の碑」というものが建てられています。正門を入ったところにあるので、真岡高校へ行った時にはぜひチェックしてみてください!
これまでの真岡高校の歴史
そういえば最初の方に真岡高校は栃木県で3番目に創立された旧制中学校と言っていたけどどういうことなの?
そもそも旧制中学校って?
「中学校」は第二次世界大戦前と後ではかなり特徴が違うため、戦前の中学校のことを旧制中学校と呼んでいるよ。
旧制中学校は男子のみが入学する修業期間5年間の学校だったけど、戦後は高校へと移行したんだ。現在の中学校はその代わりに誕生したんだよ。
真岡高校は栃木県内では3番目の公立の旧制中学校として、1900年に栃木県第三中学校という名前で開校しました。しかし翌年には栃木県立真岡中学校に名前が変わりました。
最初の入試では定員100名のところ志願者は245名にもなったそうだよ。合格したのはそのうちの102名でした。
それだけ中学校の需要があったんだね。
その後は第二次世界大戦が終了するまで、真岡中学校として多くの生徒を輩出していきました。
ちなみに当時は他にも中学校がありました。
- 栃木県第一中学校(宇都宮高校)
- 栃木県第二中学校(栃木高校)
- 下野中学校(作新学院高校)
大正時代
大正時代に入ると中学校への入学志願者はさらに増え、定員を増やしましたが倍率は1.5〜2.0倍ほどになっていました。1920年には真岡線が茂木駅まで開通し自宅から通学が可能な地域が広がったことも理由とされています。志願者は芳賀地域の生徒が多数派でしたが、茨城県から通う生徒もいたようです。
大正時代の卒業生は半数以上が進学したそうです。もちろん教員などに就職する生徒もいました。
なお1913年に先程ご紹介した「至誠の碑」が建立されました。建立の目的は地域の偉人の功績を伝えることや、至誠の精神を少年たちへ伝えることだと言われています。
昭和時代初期
大正時代には志願者が増えていましたが、昭和時代初期は不況の影響で志願者が減りました。1930年には志願者数が定員を下回ってしまい、定員削減が行われたそうです。その後徐々に志願者数は回復していきましたが、不況をきっかけに修学旅行が中止され、そのまま戦争終結まで実施されることさなかったそうです。
昭和初期は恐慌や大きな戦争もあったんだよね。
1945年の空襲では真岡中学校の校舎や工作室へ焼夷弾が落ちたという記録が残されているよ。
戦後
1948年、戦後の学制改革により真岡中学校は真岡高等学校として歩むことになりました。「至誠の碑」は戦時体制の清算として撤去されましたが、学園祭が行われるなどの変化もありました。新しい校章も卒業生によりデザインされました。
中央に真高の文字、その上に文化の火をかざし、両側に若者の伸びようとする意気を象徴する栃の葉を配し、下のリボンは白布ケ丘を表す。
1951年度の進学先としては最も多いのは、国立大学は宇都宮大学の23名、私立大学は明治大学の9名だそうです。この頃からほとんど毎年数名の東京大学進学者がいました。
ちなみに撤去された至誠の碑は校庭の隅に放置されていたそうですが、至誠の精神自体には誤りはないということで1949年に再建されました。
まとめ
真岡高校は現在も真岡市を代表する伝統校として優秀な生徒を輩出していることが分かりました。高校の偏差値以上の学力を持つ生徒もいるようです。そういった生徒に刺激を受けながら、切磋琢磨して真岡高校の伝統や精神をこれからも引き継いでほしいですね!
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